花の匂いは
千本の桜。ハルピン。
笹倉に会ってからこの二つがふと気づくと頭の中を巡っている。
霞がかった夢のような李歐との逢瀬は
李歐を恋しいと思う自分の狂った頭が見せた幻覚だと思っていたが、
同時刻に李歐が仮死状態にあったと聞き、
一気に現実味を帯びて一彰の頭を悩ませた。
魂は日に千里を走るというが、それを本当にやってのけるのが李歐という男だ。
「ぴーぽーぴーぽー、キキーッ、どぉーん」
派手な効果音を出して耕太の操るおもちゃのパトカーが
寝そべった一彰の腕にぶつかる。
「大変だ、大きな事故だぞ」
と言ってそのおもちゃを掴むと
「お父さん、痛い?救急車呼ぶから大丈夫大丈夫」
と耕太は心配そうな顔をして一彰の手からパトカーを取り返す。
一彰は「大丈夫大丈夫」と言いながら、
のそりと起き上がって胡坐を掻いて座った。
「…なぁ、耕太。もし耕太のお友達が桜を千本くれるって言ったらどうする?」
こんな子どもにこんなばかげたことを訊くなんて、
まだ見ぬ桜の海に頭を相当やられてしまっているに違いない。
耕太は千本の桜というのが、ぴんと来ないようで、
「千本ってどのくらい?」
と訊いてくる。
「すごくいーっぱいだよ。数え切れないくらい」
と両手を円を描くように大きく回した。
すると耕太は本当にわかっているのかわからないが、
ひどく驚いて「すごい、すごい」を連発し、
「いっぱい桜あったら嬉しい」と言った。
子どもらしい無邪気な反応に新鮮味を感じた。
「耕太は桜好きか?」
と訊くと「うん」と直ぐに答えが返ってきた。
「どうして?」
「だって綺麗だから」
――綺麗。
ずっと澱のように一彰を悩ませていた霧が晴れていく。
そうだ、単純に綺麗なんだ。
綺麗だから好き。惹かれる。
李歐、あらゆるものを見てきた君が綺麗だと思うのは桜だということか。
それを子どものようにたくさん集めて、僕にくれるというのか。
僕は桜よりも恐ろしく綺麗な君に惹かれているというのに。